じいちゃんが死んだのでじいちゃんの話をする

2017年の春、食事が取れなくなったと言う祖父をなんとか説得して病院に連れて行ってもらい、いろんな検査をした。結果が出る前から母となんとなく予想していたけれど、やっぱり食道がんの重いやつだった。結果を報告しに来てくれたとき「こんなドラマみたいなことが自分の人生にも起こるんだ」と思いながら犬を撫でる祖父の姿を真剣に目に焼き付けた。病院に入ればもう、いつものじいちゃんじゃなくなってしまうことはバカな私にも簡単にわかったから。あの日からちょうど2年、その祖父が今日亡くなった。

「半年もてばいいほう、最悪三ヶ月」と聞かされた私はひどく落ち込み、焦り、祖父にいつかひ孫を見せてやりたいという夢を叶えたい一心で、今すぐ結婚しようか?最悪子作りだけでもするか?でも半年じゃ生まれないしな…なんてとち狂ったことを考えていた。その話をしたら友達にかなり真剣に説教されたことを思い出す。ほんとバカすぎて穴があったら入りたいし慌ててそんなことしなくて本当に良かったと今は思える。

4年前仕事をやめたころ、私はいろんなことが嫌になっていて現実逃避みたいにいつも遊びに出ていて、その日もどこか遠くに行った帰りに終電を逃してしまい、祖父が駅まで迎えに来てくれたことがあった。久しぶりに会った気がして、怒りっぽい祖父を前に何を喋ろうか悩んでいたら「玲那はできる子だからまたいい仕事が見つかる、大丈夫。ゆっくり探せばいい」というようなことをぽつぽつと話してくれた。 仕事ができないというようなことに悩んでやめたわけではないので見当違いといえばそうなんだけど、とにかく自己肯定感がなくてどこにも居場所がない、しょうもないことにつまずいて仕事までやめちゃうしダメ人間…と落ち込みまくっていた時期だったので、その言葉は本当に人生で一番うれしかった。今でもあのときのうれしさ、安心感、泣いたこと、よく覚えている。反抗期を境に母とも父とも弟ともあまりうまくいってなかった自分が、初めてちゃんと肯定された気がした。

その日からずっと、ちゃんとした仕事について祖父を安心させてあげたいと思っていたけれど、ついに叶わなかった。堂々と仕事の話をしてあげたかった。それだけは本当に後悔している。けれど今の仕事をしていなかったら、治療や生活に関することをここまでサポートしてあげられなかったとも思うから悩ましい。そこには誇りを持ちたいし。がんばって稼いだお金には変わりないから。

あとその頃から少しづつ、家族にも向き合おうと思えるようになった気がする。今昔の写真を見返していたらその一ヶ月後に今の仕事を始めていた。まずは働かねば話にならんわい、と思って始めたアルバイトがここまで続き、今では本業と言えるまでになるとは全く思ってなかったけど。いろんな人に出会ううちにちょっとづつ自信を取り戻していったら家族ともまともに話せるようになっていた。

祖父のおかげというのも寂しいけれど、祖父の病気があったおかげでまだ少しギクシャクした感じが残っていた家族とも、また仲良く過ごせるようになったのは紛れも無い事実だ。お見舞いに行く、今後の計画を考える、食事をしながら話し合う。そういう時間を重ねるたびに、家族がちゃんとチームになっていくのを感じた。

立派に育ったチームは今や完全に連携プレイができるようになっているし、誰かが困ったときのサポートもバッチリ。個々の生活も充実?しているはずだし、本当によかった。最後までじいちゃんが私たちを育ててくれていたことに気づいて本日2回目の涙腺崩壊している。もーーーー。ずるいわ。偉大すぎるわ。

父親がいなかった私のお父さん代わりをしてくれたじいちゃん。怒られるとマジでちびるくらいこわいじいちゃん。ボートと麻雀が大好きなじいちゃん。糖尿病になってもお酒がやめられないじいちゃん。どんな顔を思い出しても止まった時間はもう動かないので、わたしはわたしの時間を動かします。

26年間家族でいてくれてありがとう。2年間大嫌いな注射も病院も生死を彷徨う大手術もがんばって生きててくれてありがとう。世界一愛してるの座は永久にじいちゃんです。その隣にいっぱい新しいイス置くけどな!困ったときは神頼みするから聞いててね。またね。